東北の大震災から4年になりました。
未曾有の震災に愛する人をはじめとするすべてを失った方々の心中を察すると、いかばかりだったかと思います。
それでも生きる希望を失わずに前に向かって日々を送られる東北の方々には深く敬服いたします。
本日の朝、皆で一分間の黙とうをしました。
4年前の3月は私にとってはまた別の意味があります。
先代でもあり父でもある高石健太郎が亡くなった時期です。
それは震災の一週間前の事でした。
私が東京の水素・燃料電池展が終わって帰ってきた週末でした。
先代は若い時に肝臓を患い、長い間付き合ってきました。
最後の数年も悪いなりに健康でいたのですが、そのころには父はいつ命が途絶えても不思議ではない状況でした。
それでも亡くなる前日まで元気にしていました。
私たち家族にとっても早すぎるタイミングでした。
お陰様で、多くの人に見送られてあの世に旅立つことができました。
派手なことが嫌いな先代のことでしたから、社葬にすることもなく仕事に穴をあけることもなく、割と地味目に葬式を執り行いました。
それでもたくさんの花に囲まれて、たくさんの大好きな人々に見守られて、大変幸せに旅立てたと思います。その人の最終的な評価は旅立つときにわかるものなのかな、と思います。
あの大震災を見ずにあの世に行けたことは幸いなことだったのかもしれません。
病気の事もあり、自分が老いないうちに代を譲ろうとしてくれたことは、大きな英断だったと思います。
「生きているうちに年金をもらいたいんや」と言って何年か早めに私に社長の仕事を引き継ぎ、引退をしました。
とはいえ会社は自分の分身であり、仕事の状況はやはり心配だったようです。私に代を譲り完全に引退してからも時々会社に来ては、「あれでええんか?大丈夫か?」と先代からの番頭に言っていた、とは後で聞きました。きっと危なっかしく映ったことでしょう。
先代である父は仕事ではあまりほめてくれない人でした。
あれから4年、生きていたら今の会社を見てどう言ってくれるでしょうか。
新しいもの好きな父でしたから、最近の研究開発や試作の充実ぶりを見ると、きらきら目を輝かせるかなと思います。
それでも多分「まだまだ、あれもこれもできていないところだらけだ」と言うと思います。
私自身どうしたらわからないことが多く、でも今更あの世に聞きにいけないもどかしさを感じます。
先代が生きている時に書き残したメモを時々見返しては「父ならどう判断するだろうか」と考える時も時々あります。
経営者としてまだまだ父には及ぶべくもありませんが、いつか「なかなかやるな」と言ってくれるといいなぁ、なんて思います。