東北の大震災から10年になりました。
2011年3月11日14時46分、宮城県沖でM9.0の地震が起きました。
その時私は九州に出張中でした(大阪でも揺れたそうです)。新大阪までは新幹線が走っておりましたので、遅れながらもなんとか帰ってきました。
(東京も大変な混乱だったようで、横浜の友人に連絡を取ったら、帰宅難民になっていて30キロ歩いて帰ったと聞きました。)
その後事態が明らかになるにつれ、深刻になる状況に呆然とするばかりでした。テレビの画面に映し出されていたのはまるでパニック映画の一シーンでした。大津波の映像、壊滅した街、増えていく犠牲者・行方不明者、原発のメルトダウンの危機・・・現代日本で起こっていると思えないことばかりで、目を疑いました。津波の画面の下に多くの人がいると考えるだけで胸が痛みました。
この大震災による被害は死者15,899人、行方不明者2,529人、震災関連の死者3,773人に上るそうです。それに福島第一原発のメルトダウンは、日本のみならず世界に衝撃を与え、いまだに廃炉に向けての道のりは遠いと言わざるを得ません。
当時、こんな震災のさなかでも被災された方々が落ち着いて行動をされていること、ガソリンスタンドやスーパーにきちんと並んでいること、何日もかけて道を切り開いておられることには本当に胸を打たれました。
このところテレビ放送で改めて震災発生のころの映像を見ると、今も胸が締め付けられる思いです。当時を回想する方たちの話を聞き、未曾有の震災に愛する人をはじめとするすべてを失った方々の心中を察すると、いかばかりのことだっただろうかと思います。
その後ボランティアや義捐金を始め、何かできないかと行動を起こす方々がたくさんいらっしゃいました。
私も被災をされた方々や復興支援をされている方々から直接話を聞く機会があったりもしました。その人たちは気丈に、
「できることからなんでもいいです。直接被災地でボランティアはもちろん、現地への旅行でお金を使う(冷やかしはダメですが)のでも何でもいいです。
訪問すると迷惑かな、なんて思わずに気仙沼でも仙台でもどうか被災地を訪れてください。
それも復興支援です。」
と言ってくださいました。実際会った方達は、皆さんとても元気で、明るくて、前向きな人たちばかりでした。
同じ日本人として見習わねば、と逆にこちらが明るい気持ちになりました。
10年がたち、街は整備されてずいぶんきれいになったと聞きます。
しかし、福島の原発をはじめ、本当の復興はまだまだ時間がかかることでしょう。
当時は最大で47万人の人が避難を余儀なくされ、いまだ4万1千人もの人が避難者生活を送られているとか。まだまだ現在進行形なのですね。
これまでも、これからも、生きる希望を失わずに前に向かって日々を送られる東北の方々には深く敬服いたします。
私たちのゴムパッキンは水道・ガス・トイレなどのライフラインで多く使われています。復興に向けて少しでもお役にたてるのならなんでもしたい、そう思って仕事をしてきました。その気持ちは今でも変わっていません。
こうして今日の日を生きることができることの幸せと、きょう一日悔いなく生きる決意とを胸に抱いて、これからも少しでもお役にたてるよう、頑張っていきたいと思います。