毎年1月17日になると、阪神・淡路大震災の時のことを思い出します。
1995年1月17日の阪神・淡路大震災は、明け方5時46分に発生しました。
マグニチュードは7.3、震源地の震度は7でした。
阪神大震災の時、私は大阪の実家にいました。
明け方5時46分にたまたま起きていて、本やCDが棚から飛んできたのを覚えています。それでも本棚が倒れたくらいで済みました。
あの時も私はテレビに映る惨状に呆然としていました。時間とともにひどくなる状況に「まさかこんなことになるとは」と思った記憶があります。
大阪工場では瓦が落ちたり、棚が倒れたり、機械が倒れたり、壁にひびが入ったりしました。大阪工場の地域では震度4だったようです。
それでも会社は休業せずに操業できました。しかし、山崎工場の消息が一週間わかりませんでした。まだ私は働いていなかったのですが、当時は道路が寸断されて、工場ごとの行き来ができなかったそうです。電話はつながっていましたが、現状確認ができなかったのです。工場近くには断層が走っていることもあり、相当の被害が予想されました。
何せ阪神高速が倒れるような状況だったのです。実際に工場を見に行ったのは一週間後だったそうです。どうなっているのか、いつ着くのかまったくわからずに現地に向かった人は勇気がいったといいます。中国道が一車線通行となっていて、通常2時間の道が8時間かかったそうです。
復興の時には工場の被災が少なかったので、あちらこちらから注文が来たとか。
油圧機械関係・水道関係・ガス関係とインフラ・ライフラインにかかわるお客様が多かったから、と当時を知る人は言います(といっても私たちの製品はOリングやパッキン・ガスケット・ダイヤフラム類ですので、目につくところに出ることのないものですが)。てんやわんやの中で仕事をして何とか間に合わせたそうです。
当時のことを大阪の本社で知る人はもう数えるほどになりました。
先代社長はあの時のことを教訓にして、倉庫など耐震補強を行いました。
時々備えを忘れそうになるのはやはり甘いな、と自分に対して思いながらも、BCP(事業継続計画)を見直して備えていきたいと思います。
あれから28年が経ちました。
今日がいつもと変わらない一日であることを、大変に幸せなことだと思っています。