~前回までのお話
―アラフィフが飛び込んだ新しい世界、そこは予測不能な「少年野球」というドラマだった・・・
「お父さん、ちょっとでいいんで、来れるときだけ」
──この“ちょっと”がだいたいクセモノ。
気づけば週末、帽子とジャージでグラウンドに立ってる。
砂まみれ、汗だく
うっすら腰に違和感、紫外線ダメージでお肌ヨレヨレ
・・どうしてこうなった?
しかも 「コーチ。それは教える立場、助ける役割・・」
とほんのり頭にあった
が
野球のプレーそのものや、練習・試合の準備、道具の扱い、チームの運営、少年団のしきたり・・
などなど、山ほど知らないことだらけ。
教えられ、助けられっぱなし。
見てるだけの時には、「まぁだいたいわかるでしょ」なんて気がしてた。
でも、たとえばじゃあ
ノックできますか? 審判おねがいします? 大会の登録や試合の調整は? と言われると
・・・はい、全部ムリです。
なんとなく知ってる感覚でも、実際は届いてない部分ってあります。
やってみて初めて気づくことばかり。
“わかってるつもり”って、ほんとに危険。
やったことがないことをやると、いろいろ剥がされて、いろいろ刺さって
でもそこでしか得られない発見があるんですね。
失敗もするし、恥もかく。ちょっと情けない気持ち。
でも、それが意外と楽しい。そのたびにちょっとずつ、“わかる”が増えていく。
やったことない、わからない、できない・・・が面白い。
一緒にグラウンドに立つ子どもたちも、野球を「知らない」ところから始まるんですが
ちょっとずつ「知って」
失敗しながら「わかってきて」
そのうち「できて」
気づけば自然に「している」。
この進化スピード、えげつないです。
活動のなかで子どもたちに教えたかったこと
「失敗してもいい、やってみることが大事」
「うまくなるには時間がかかる」
「毎日ちょっとずつでいいから続けよう」
・・・全部自分に返ってきて、メッチャ刺さってます。
さらに、ふと思うのは
試合が始まってしまってから、そのさなか
「考えろ!」「違うだろ!」って叫んだところで、正直あんまり意味ないよな、と。
あとから「言ったじゃないか!」って言いたくなるけど
それって、そもそも練習で“考える力”を育てる工夫をしたか?
“正しいやり方”をちゃんと根づかせてたのか?
見直すべきは、子どもじゃなくて、おとなのコーチングだったりします。
何も言わなくても、準備をして、グラウンドに立ち、失敗して、また立ち上がる。
そんな息子の背中が、語っている。
私が言葉で伝えたかったこと、全部、行動で返してくる。
同じグラウンドで、息子のちょっと先をいくフリをしながら
実は教えてもらってるオヤジの物語。
失敗だらけだけど、そこがまた面白い。
いま自分のなかで感じているのは、50歳が近づいてきても
「まだ知らないことを知る楽しさ」 と 「まだ変われる自分へのちょっとした期待」
子どもたちと 一緒に 成長中。 ・・・ただし体の回復は2日遅れ(笑)